令和6年で創設120周年を迎えます「澄声会」は、私の曾祖父・清水八郎(観世流職分)が始めた素人弟子の指導を目的とする会です。

当初は「澄聲会(とうせいかい)」と称しておりましたものを、祖父・義忠が「澄声会(ちょうせいかい)」と改めました。

八郎は埼玉県草加市の豪農・藤波家からの婿養子でした。藤波家には二十三世観世宗家・観世清廉師が謡のご指導にいらっしゃり、親兄弟と共に八郎もご指導頂きました。その中で能楽師になりましたのは、八郎だけでした。

近隣の親族には、藤波家の他に小澤家、関根家といった豪農がおり、八郎は親族を中心に謡の普及に努めました。

晩年には、忝なくも香淳皇后(昭和天皇の皇后)の謡のご指南をさせて頂き、また皇宮警察、日清製粉、勧業銀行などの謡曲クラブの指導もさせて頂きました(義忠まで引き継がれました)。

そもそも清水家は、尾張国刈谷の水野家にお仕えした武士の家で、今川家との「村木砦の戦い」(織田信長も参戦)に先祖・清水権之助政晴の名が見えます。

その後、徳川家康公にお仕えし、三河国渥美郡中山(現在の愛知県田原市中山周辺)の代官を勤め、二千石(途中から千石)の旗本として江戸時代を過ごしました(屋敷は下谷三味線堀)。

明治維新の苦難の時期を乗り越えますが、1人子の嫡男が早世、旗本戸田家(江戸期に度々養子を迎えていた)より養女を迎え、更に婿養子として清水家に入りましたのが、八郎になります。

八郎には息男が2人おり、兄は清水義忠、弟は戸田家の養子となり戸田勝博(のちに武俊)となります。

義忠は「電通」に勤めるかたわら、謡の指導をし「澄声会」を生涯続けました。
また、戸田武俊は三井物産で名を挙げ、能楽界を資金面で支えました。

義忠の嫡男、義康は能楽界に足を踏み入れず、義康の1人子の義也が「澄声会」を継承しました。

菩提寺は東京都文京区の小石川伝通院と、愛知県田原市の清水山九清院。

伝通院に於きましては、徳川家、松平家に次ぐ古くからの檀家として、現在は義康が檀信徒総代を勤めています。

義也は、二十六世観世宗家観世清和師に師事。
観世会をはじめ、数多くの能の公演に出演させて頂いております。

義也の嫡男・義久は平成22年生まれ。2歳より能の舞台に出演し、観世清和師をはじめ、数多くの子方(子役)を勤めさせて頂きました。

武士という立場は無くなりましたが、日本の古くからの生き方を残す「能」という武家文化に身を置けることに感謝し、1人でも多くの方に「日本における能」をわかりやすくお伝えすべく、日々勤めております。

令和6年  清水義也  記