不覚にも、、、
先日のお弟子さんの稽古。
80歳を超えられた澄声会の会長さんの「半蔀」の仕舞が終わった途端、涙が止まらず、不覚にも大泣きして、5分くらい稽古を中断してしまいました。
物心ついた頃には稽古をはじめ、リタイアされてからご縁を頂いて私のところにいらして10数年。
ここ最近は仕舞の最初に立つのには、手をつかないと立てません。
でも、その舞の風情たるや、、
私は地謡を謡いながら、「やっぱり能は80歳からだよな〜」なんて思っていたら、その方が舞い終えた途端、涙が溢れて、嗚咽になる始末
いやぁ、、、
降参しました。
能は、プロ、アマ関係ないんです。
正しく導いてくれる先生について、一途に続けるだけ。
80歳も半ばになって、背筋を伸ばし、シッカリと目を見開き、一足一足を歩む。
まさに、仏の世界を見た気分で、拝みたくなった瞬間です。
(あ、稽古は洋服でなさってますからね。着ているもののせいではありません)
我が師匠が
「このような方は、もういないな」
と仰る程の、いわば『玄人はだし』。
でも、決して偉ぶられもせず、澄声会の会長としての威厳のみ。
何事にも「先生のお好きなようになさるのがいいですよ」と。
、、、、、
仕舞という芸は、表面的には
何足歩いて◯◯へ行け。
その繰り返し。
素人さんは、それを正しく出来たかを評価したがりますが、それは違います!
そんな事をやるのではなく、一足ずつの重み、軽みを学ばなくては意味がない!
かっこよく、ステキにやりたい
そんなの無理。
見ている方が、勝手にステキだと思うのです。
だから、能は武道だ!と、いつも言っています。
あとは私の曽祖父が遺した言葉
「(弟子は)馬鹿になって習え」
「(師匠は)馬鹿になって教えろ」
と。
何歳から始めたか?だって、関係ありません。
杖なしで歩けなかった70代後半のご婦人が、仕舞を習いはじめ、杖なしで歩けるようになった時の感動。
(それを聞いた時も、半泣きしてました。)
そのご婦人は、数年前、ソファーでうたた寝をしながら亡くなられたそうです。
人生の最後まで出来るのが能です。
座れなければ、座らなければいい。
それでも座るところでは座りたい。立つのに手をつくなら、手をついて立つ稽古をすればいい。
立てないのが恥かしいのではなく、立つ時に手をつくことの、充分な稽古をしていないことが恥かしいのです。
その代わり、精一杯、心を動かしましょう。
私の言葉の真意をわかりたければ、1日も早く、能を習いはじめて下さい。
、、、、、
涙が止まらない私に、会長は
「先生に教わっている通りにやってるだけですよ」と慰め(?)られました。
そりゃ、弟子の稽古で涙を流す師匠なんて、いないですよね。笑
不覚でした。
いやぁ、、、
能って凄いです。