小栗が明治まで生きていたら、、、

夢は続く――。

もし、小栗忠順が明治まで生きていたら。

横須賀製鉄所をつくり、
日本の近代化の礎を築きながら、
その行く末を見ることなく、
40歳で命を絶たれた小栗忠順。

もし、あの人生が「未完」のまま終わらず、
自らの手で完結することができていたなら――。

彼は、どんな明治を生きただろう。
そして、自分が思い描いた日本の未来を見て、
何を思っただろう。

私は能楽師として生きる中で、
幾多の大先輩方を見送ってきました。

長く生きた方々は、
果たして「人生を完結できた」と満足していたのだろうか。

むしろ私は、その姿から、
長く生きるということは、それだけ重い責任を背負うことなのだ
と教えられた気がしています。

生きている限り、
夢には続きがある。

成し遂げても、また次がある。
誰かに託しても、まだ終わらない。

だからこそ思うのです。

小栗忠順が、もし明治まで生きていたなら――。

彼にはきっと、
まだ果たさなければならない「夢の続き」があった。

新作能『小栗上野介』で描きたいのは、
歴史の「もし」ではありません。

人は夢を持っていい。
「もし、あの時……」と願ってもいい。

現実だけが、人の人生ではない。

叶わなかった夢も、
志を継ぐ人がいる限り、
その先へ続いていくのだと思います。

夢は続く――。

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想像は現実を超える、、新作能「小栗上野介」

本当ならば――。

歴史に「たら・れば」はない、と言われます。

けれど、人の心には、
「もし、あの時こうだったなら」
「もし、生きて帰ることができたなら」
という思いがあっていい。

人は、夢を持っていい。

叶わなかった夢を思ってもいい。
会えなかった人に、もう一度会いたいと願ってもいい。
歴史の中で果たされなかった人生の続きを、思い描いてもいい。

現実だけを見れば、
採算、効率、集客、費用対効果――
物事はいくらでも数字に置き換えることができます。

もちろん、それらは大切です。

しかし、文化や芸能の価値まで、すべて数字で測れるのでしょうか。

能は、現実だけを描く芸能ではありません。

亡くなった者が現れ、
果たせなかった思いを語り、
生者と死者が時を越えて出会う。

そして最後には、夢か現かも分からぬまま、
その魂を鎮め、未来へ送り出す。

そんな芸能が、六百年以上、日本には残っています。

新作能「小栗上野介」で私が描きたいのも、
歴史の教科書に書かれた「事実」だけではありません。

小栗上野介は、本当は何を夢見ていたのか。

妻に何を託したのか。

もし、もう一度会えたなら――。

もし、未来の日本を見ることができたなら――。

「たら・れば」があっていい。
夢があっていい。

現実ばかりを追い求める今の時代だからこそ、
目には見えないもの、
数字には表せないもの、
人の心の奥底に残るものを大切にしたい。

そんな時代に一石を投じられる芸能が、

私は「能」であってほしいと思っています。

新作能「小栗上野介」。

これは歴史を再現する舞台ではありません。

果たされなかった人生の続きを、六百年の能という芸能の中で、もう一度生きてもらう舞台です。New!!