小栗上野介の妻
小栗上野介の妻・道子。
夫が斬首される直前、道子は小栗と今生の別れをしました。
そして夫の死後、その言葉に従い、会津を目指して権田村を脱出します。
善光寺参詣の一行に扮し、小栗の母、養子・又一の許嫁らとともに、総勢約20人。 村人たちに守られながらの逃避行でした。
権田村から北へ。 野反湖を経て、険しい山道を越え、秋山郷、津南、十日町、長岡、そして新潟へ。
新潟では小栗家ゆかりの墓に参り、さらに会津を目指したと伝えられています。
しかも、道子は身重でした。
今のような道路も交通手段もない時代です。 追われる身で、山を越え、谷を越えてゆく。
どれほど過酷な旅だったでしょう。
そして私は思うのです。
道子は、何のためにそこまでして生きようとしたのだろう、と。
自分一人が助かるためではなかった。
お腹の中にいる、小栗との「ひと粒種」を守るためだったのではないでしょうか。
男の子なのか、女の子なのかさえ分からない。
それでも、小栗家の妻として、 夫から託された命を守り、 家を未来へつなごうとした。
だから私は、新作能『小栗上野介』に、この言葉を掲げています。
「人は誰のために生き、 誰のために死ぬのか」
これは、小栗上野介だけに向けた問いではありません。
道子にも。 小栗を守った村人たちにも。 そして、現代を生きる私たちにも向けた問いです。
あなたは、誰のために生きていますか。
自分のため。 家族のため。 子どものため。 愛する人のため。 仕事のため。 故郷のため。 国のため。
あるいは、まだ見ぬ誰かのため。
人は本当に、自分一人のためだけに生きているのでしょうか。
私は「自由」というものを否定するつもりはありません。 しかし、「自分の人生なのだから、自分だけが良ければいい」という上辺だけの自由には、怖さも感じます。
私たちは一人で生まれてきたわけではありません。
誰かから命を受け継ぎ、 誰かに育てられ、 誰かと関わり、 そしてまた、何かを次の人へ託していく。
道子が守った「ひと粒種」も、そうでした。
そして――
今回の新作能『小栗上野介』には、 小栗上野介のご子孫にもお越しいただきます。
さらに、小栗と深い関わりを持った方々のご子孫にもお越しいただきます。
百五十年以上前を生きた人々の命は、 そこで途切れたのではありません。
受け継がれ、 つながり、 令和の今を生きています。
舞台の上では、亡き人々が「霊」として現れます。
しかし、その人々から受け継がれた命を持つ方々が、 同じ日に、同じ劇場に集う。
これは夢ではありません。
現実です。
だからこそ私は、 新作能『小栗上野介』を、単なる歴史劇にはしたくありません。
小栗の死に、どんな意味があったのか。
道子が生き抜いたことに、どんな意味があったのか。
そして、私たち自身の命は、 誰から受け継ぎ、 誰へとつながっていくのか。
その答えを、舞台から押しつけるつもりはありません。
新作能『小栗上野介』をご覧になるお一人お一人に、 考えていただきたいのです。
「人は誰のために生き、 誰のために死ぬのか」
百五十年前の問いではありません。
今を生きる、私たち自身への問いなのです。


